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トップ  >  中国人物  >  曹操(治世の能臣,乱世の奸雄,三国時代の魏武)
曹操 魏武帝 三国志 劉備 孫権
曹操(そう そう、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日)は、中国後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。字は孟徳、幼名は阿瞞また吉利。沛(はい)国譙(しょう)県(現在の河南省永城市)の人。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩はもともと夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。彼の挙兵時から従軍した夏侯惇、夏侯淵等は従兄弟にあたる。
曹操画像
曹操画像

[治世の能臣、乱世の奸雄]
曹操は若くして機知・権謀に富んだが、放蕩を好み素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ太尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。また、橋玄が紹介した月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子將(許劭)から、「子治世之能臣亂世之奸雄」(子は治世の能臣、乱世の奸雄(姦雄))または「君清平之奸賊亂世之英雄」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)と評した。曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。
20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を歴任した。
洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩(けんせき)の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは曹操追放を画策したが理由が見つからず、逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた。
光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると騎都尉として潁川での討伐戦に向かい、その功績によって済南の相に任命された。済南では汚職官吏の罷免、淫祠邪教を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に東郡太守に任命された。しかし、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰った。若くして隠遁生活を送ることになった曹操だが、その間も文武の鍛錬を怠ることはなかったという。
中平5年(188年)、黄巾の乱平定に功のあった者が選ばれた西園八校尉に任命された。
故郷にいるとき、王芬、許攸、周旌らによる霊帝廃位のクーデター計画に誘われるが、伊尹、霍光、呉楚七国の乱を例に挙げて参加を断った。
中国製ゲーム《三国群英伝》中の曹操
中国製ゲーム《三国群英伝》中の曹操

[反董卓連合軍]
後漢末期の黄巾の乱勃発以前に、朝廷の実権を握り、栄華をほしいままにしていた10人の宦官「十常侍」を粛清するため、大将軍何進は諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばしていた。王沈の『魏書』によれば、曹操はこの宦官粛清計画を批判している。
大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し宦官を排除して天子を補佐することが権力を握るための最短路となった。中平6年(189年)8月27日、首謀者の何進が段珪に殺されるも、袁紹と袁術が宮殿を攻めて宦官を皆殺しにしたことで、朝廷内に栄華を極めた宦官の時代もついに終焉を迎えた。
しかし、大宦官・曹騰の孫である曹操にとっては、安定して出世する事が出来たはずであった未来もまた、同時に失われたとも言える。
何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛、少帝弁を廃して献帝協を立て、朝廷を牛耳った。董卓は曹操を仲間に引き入れようとするが、董卓の暴虐ぶりを見た曹操は洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った。
この帰郷の際の有名な逸話が呂伯奢の家族の殺害である。呂伯奢は曹操の知人で、呂伯奢本人は曹操が立ち寄った際には留守であったという。王沈の『魏書』では、呂伯奢の息子達による襲撃に対する正当防衛、『世語』では、呂伯奢の息子達の裏切りを心配した曹操の一方的な虐殺、『異同雑語』では、食器を用意する音を曹操殺害の準備と勘違いしたことによる、事故的な過剰防衛としている。特に『異同雑語』では、曹操が「自分が人を裏切ることはあっても、人が自分を裏切ることは許さない」と言ったとされる。小説『三国志演義』では、この発言が曹操から陳宮が離れて行くことになった切っ掛けとしており、曹操の悪役のイメージを決定付ける逸話になっている。なお、『三国志』本文には、この逸話の記述はない。
その後、曹操は私財を投じて陳留郡己吾において挙兵した。『世語』では陳留郡の孝廉である衛茲(えいじ)の援助を受けたとしている。とはいえ当初の仲間は夏侯惇や夏侯淵、曹洪や曹仁・曹純兄弟といった身内が中心であり、その勢力は小さなものにすぎなかった。
この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。
初平元年(190年)、袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父・曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍は董卓に恐れを抱き、董卓の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、あまり積極的に攻めようとはしなかった。やがて諸侯は互いに牽制を始める。
董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが、前述のような諸侯の打算により、攻撃命令は下されなかった。業を煮やした曹操は鮑信や張邈の配下の衛茲とともに董卓を攻撃した。しかし曹操・鮑信・衛茲の軍は董卓配下の徐栄との交戦により壊滅的な打撃を受け、衛茲は戦死した。その後、曹操は軍の再編をするために揚州で徴兵し、司隸の河内郡に駐屯した。董卓が長安に撤退し、孫堅が洛陽を制圧すると、反董卓連合軍は解散した。
三国形势
三国形势

[雄飛]
初平2年(191年)、黒山軍の反乱をきっかけに曹操は袁紹によって東郡太守に任命された。この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。
初平3年(192年)春、黒山軍の本拠地を攻め、眭固や匈奴の於夫羅に大勝した。同年夏4月、董卓が呂布に暗殺された。また、兗州の刺史・劉岱が青州から来た黄巾軍に殺された。そこで鮑信らは曹操を兗州牧に迎えた。 曹操は黄巾討伐の詔勅を受け、黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。
初平4年(193年)頃、袁紹と袁術の兄弟が仲違いをした。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。敗れた袁術は寿春に落ち延びていった。
この頃、曹操は陶謙に父・曹嵩や弟・曹徳を含めた一族を殺されていた。
初平4年(193年)秋、その恨みから復讐戦を行うことを決意し、徐州に侵攻し、陶謙から十数城を奪い、彭城での戦いで陶謙軍に大勝し、数万人を殺した。『後漢書』によれば、曹操は数十万人の男女を殺したという。この時、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ無く、死体のため泗水の流れが堰き止められたと言われるほどの惨状であったといわれる。この虐殺によって曹操は非常に評価を落とし、後世三国志の注釈を編んだ裴松之の注によれば、歴史家の孫盛もこの虐殺を批判している。
興平元年(194年)夏、曹操は再び徐州に侵攻し、通過した地域で多くの人を虐殺した。ところが、親友の張邈が軍師の陳宮と謀って呂布を迎え入れて、曹操に反逆し、領地である兗州の大半は呂布のものとなった。
張邈は呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだために袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にそのことを言われる度に張邈を庇っていたが、張邈の方は曹操が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切ったとされている。張邈と曹操とは古くからの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。
曹操は兗州に戻り、呂布を攻めたが、敗れ、青州兵は大打撃を受け、曹操自身も大火傷を負った。幸い荀彧・程昱・夏侯惇らが本拠地を守り抜き、飛蝗による蝗害のために飢饉が起き、兵糧の尽き果てた呂布が軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。
このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくるが、程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、イナゴと旱魃のため穀物の値段は1石50余万銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。そんな中、徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。
興平2年(195年)春、定陶郡を攻撃。南城を陥落させられなかったが、折り良く着陣してきた呂布の軍勢を撃破する。同年夏には鉅野を攻めて薛蘭・李封を撃破し、救援に現れた呂布を敗走させた。呂布は陳宮ら一万と合流して再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、弟の張超を攻撃する。同年秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。同年冬、張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。
この頃、長安では呂布らを追った李傕らが朝廷の実権を握っていた。しかし、李傕らは常に内紛を続けていた。
建安元年(196年)1月、荀彧と程昱の勧めに従い、長安から逃げてきた献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れるために、曹洪に献帝を迎えに行かせたが、董承に妨害された。同年2月、黄巾賊の黄邵・劉辟・何儀らを破り、豫州西部を制圧した。同年9月、董昭の策略を用いて、献帝を許昌に迎え入れた。曹操は司空・車騎将軍に任命された。同年、曹操は屯田制を開始している。
建安2年(197年)春、宛に張繍を攻めて降伏させた。この際に曹操は張繍の叔父である張済の未亡人を妾としたが、そのことに張繍が腹を立てていると知って彼の殺害を考えるも、事前にそれを察知した張繍に先制され、敗れる。この敗戦で長男の曹昂・忠臣の典韋を失った。
曹操と劉備煮酒論英雄
曹操と劉備煮酒論英雄

建安3年(198年)、張繍を穣に包囲した。劉表が兵を派遣して張繍を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。同年4月、後漢王朝は裴茂・段煨らを派遣して、李傕を滅ぼした。同年冬、呂布を攻める。呂布は下邳城に籠城したが、水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させ、豫州東部と徐州を制圧した。この時の劉備は曹操に歓待され、それに曹操から「天下に英雄といえば、おぬしと予だけだ。袁紹などでは不足よ」と評されている(これは中国語で所謂「煮酒論英雄」)。
建安4年(199年)、袁紹は公孫瓚を滅ぼし、河北を平定した。袁術は呂布や曹操に敗北し勢力が衰え、袁紹のもとに身を寄せようとしたが、その途中で病死した。曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繍は再び曹操に降伏し、曹操も過去の恨みを呑んで迎え入れた。
[官渡の戦い以後]
建安5年(200年)に官渡の戦いで最大の敵である袁紹を破り、その死後、華北(中国北部)を統一した。
建安9年(204年)、袁氏の本拠である冀州の鄴(現在の河北省臨漳(りんしょう))を攻め落とし、ここに本拠地を移す。
建安10年(205年)、袁紹の子の袁譚を滅ぼし、冀州を平定した。同年、黒山軍の張燕が十数万人の軍勢を率いて降伏してきた。
建安11年(206年)、袁紹の甥の高幹を討伐し、并州を平定した。
建安12年(207年)、袁氏に味方する蹋頓ら烏丸(うがん)族を討ち、20数万人を降伏させ、袁紹の子の袁尚・袁煕を滅ぼし、幽州を平定し、河北(黄河の北岸地域)を統一した。
曹操の勢力は圧倒的なものとなり、残るは荊州の劉表、江東の孫権、益州の劉璋、漢中の五斗米道、関中の馬騰を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。曹操は三公制を廃止し、自ら丞相となり天下統一への道を固めた。
建安13年(208年)冬、曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ劉琮を降し、長江を下って孫権領へ攻め込もうとした。だが孫権軍の周瑜の部将の黄蓋の策略に引っかかった曹操軍の軍船は火攻めに遭い、疫病に悩まされていたことも重なり、撤退を余儀なくされた(赤壁の戦い)。
建安16年(211年)、馬超をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った(潼関の戦い)。その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。
建安18年(213年)に董昭らの提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国という形で魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢を背負う形であった曹操だが、最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。
建安20年(215年)、漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。その後、数年間にわたり益州を制圧した劉備軍と曹操軍は、漢中周辺で激戦を繰り広げた。
建安24年(219年)、漢中を守備している夏侯淵が劉備に討ち取られ(定軍山の戦い)、曹操自ら漢中に援軍に出向いたが、苦戦し被害が大きくなったので撤退し、漢中を劉備に奪われた。また、劉備の部将の関羽が曹操の勢力下の樊城・襄陽を包囲し、曹操の部将の于禁・龐徳を捕虜とした。曹操は司馬懿・蒋済の提案に従い、孫権と同盟を結び、関羽を破った。
建安25年(220年)、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。

[子孫]
子孫は現在、浙江省杭州の東図上村に住んでいるとされ、住民1,600人のうち1,500人の姓が「曹」である。
[家柄・出自]
『三国志』に登場する人物は、背が高い、見目麗しい、髭が立派、など、立派な外見をしていると書かれている者が多い。そんな中で曹操はあまり風采が上がらなかった。それに加えて曹家は名臣曹参の裔を称しており、父の曹嵩が三公である太尉であったものの、祖父の曹騰が宦官である事から常に士大夫層からその事を馬鹿にされており、血筋・家柄的には、袁紹・袁術ほどには生まれながらにして他者に大きく先行する存在ではなかったと言える。
たとえば、袁紹の謀臣であった陳琳は曹操との戦いに向けた檄文の中で曹操を「贅閹の遺醜」(宦官という卑しい存在の臭い倅、といったような意味)と罵倒している。のちに曹操は求賢令において同時代ではかなり異例・異質な「才を重視し家柄や過去にこだわらず、当時身分の低かった専門職の人々も厚く用いる」といった登用姿勢を号令した。
曹氏系図
曹氏系図

また、以下のような逸話が残されている。生前劉表は荷車は引けないが大食の巨大な牛をよく自慢しており、曹操が荊州を征服した際その牛はまだ生きていたので、屠殺して宴の肴にしてしまったという(どんなに大きくても役に立たないのでは意味が無い、という意味)。
[政治家として]
農政姿勢において曹操の名君ぶりは覗える。他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪のような事をしていた当時に、曹操は韓浩・棗祗らに提言された屯田(屯田制)と呼ばれる農政を行っていた。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、袁渙の提案や任峻の尽力などにより軌道に乗った。この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。この先進的な屯田制が、後漢の群雄割拠の中でそれほど出自的に有利ではない曹操が、他の群雄を退け勝ち残った大きな理由のひとつと言えよう。
屯田以外の曹操の政治上の業績は、強制婚姻による兵雇制度の改革(屯田制と相まって、軍の盤石化に効果を上げた)、権限の一元化によって朝廷内の意思を統一するため三公を廃止して丞相と御史大夫を復活、禁酒法、軍閥の抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを見直す合併独立による再編などである。建安10年(205年)には、世間の頌徳碑建立の盛行および厚葬の風潮を正し、石室・石獣・碑銘などを造り、豪奢な葬礼を行ない墓碑を立てることを禁止する薄葬令を発した(『宋書』「礼志」)。
曹操は勢力圏の境界付近に住む住民を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。後漢末・三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。例えば、曹操は降伏させた烏桓(烏丸)族を中国の内地に住まわせ、烏桓の兵士を曹操軍に加入させた。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。
また、曹操は司空府・丞相府において尚書令の荀彧、中軍師の荀攸らを中心に軍師祭酒による参謀集団を構成し、政策・戦略決定に関与させた(『通典』)。これは明確に制度化された本格的な軍師(参謀)官職としては、世界で初めての事例である(東アジアを中心に古代から参謀を兼する職務の存在自体は確認できる)。同時代の他の群雄と比べても、袁紹、劉表、劉備、孫権らは客将・名士層や豪族を抱きかかえる目的を含めて評定において従えた程度で、対して曹操はより積極的に軍師・参謀を組織的な軍事・政治顧問として用いた。また、建安七子に数えられる陳琳・王粲・阮禹・徐幹ら名文家は曹操の秘書として機密を扱った。
「孝廉」には儒教知識人が主に推挙されるが、曹操勢力の幹部である荀彧・荀攸・賈詡・董昭・鍾繇・華歆・王朗らが孝廉に推挙されている。川勝義雄は「曹操の元に多くの名士(儒教知識人)が集まり、やがて武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来たとき、政府の(文官系の)重要官職は名士らによって占められた」としている。
清朝期の劉備マスク
清朝期の劉備マスク

[兵法家として]
曹操は文章家でもあり、兵書『孫子』を現在残る十三篇に編纂したのは曹操である(『演義』では、『孫子』に倣って十三篇に編纂した自著の兵法書である『孟徳新書』を張松に笑われた事で怒り焼き捨てているが、これが恐らく『孫子』の注釈書の事ではないかと言われている。もちろん『三国志演義』はフィクションであり、実際は焼き捨てられていない)。これは「魏武註孫子」と呼ばれ、長く読まれることになる。「孫子」自身が曹操の偽作という説も出たが、曹操以前の「孫子」の原本が発見されており、現在ではこの説は否定されている。また、現存していないものも含めると魏武帝『司馬法注』『兵書接要』『兵書要論』『兵書』『続孫子兵法』『新書』などが曹操の著作としてあったとされている。
『李衛公問対』によれば、曹操は騎兵の運用法に優れ、唐の名将・李靖も参考にしていたが、『新書』(曹操の書いた兵法書)の記述は分かり難いとしている。また、同書によれば、曹操が書いた『新書』や『孫子』の注に、曹操は「兵を正兵と奇兵に分け、正兵に先に戦わせて、奇兵に敵側面を攻撃させる。」といったことを書いているようである。実際、潼関の戦いで曹操は、軽装備の兵(正兵)を敵と先に戦わせて、騎兵(奇兵)を用いて敵を挟み撃ちにし、勝利している。
[文人・詩人として]
曹操は詩人として漢詩にも卓越しており、代表的な作品としては『文選』に収録されている「短歌行」がある。息子の曹丕・曹植と共に建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて三曹と呼ばれる。なお、現在確認できる曹操作の詩は楽府であり、伴奏と共に歌われた歌詞である。曹操以前の楽府は文学と言うより音楽であり、ここに文学的要素を大きく取り入れた曹操以後に、新しい形式である建安文学が花開く土壌となった。
曹操の詩について後世の評価がいくつか残る。梁の鍾嶸の「古直にして、甚だ悲愁」(『詩品』より)、明の周履靖の「自然沈雄」、陸時雍の「その言、鋒を摧(くだ)く斧の如し」、清の沈徳濳の「沈雄俊爽、時に覇気露わす」など。このうち沈徳潜は曹操の詩には漢の空気が残り、曹丕以後は魏の作品であると記している。また、松本幸男は曹操以後に従軍文学と言うべき作が多いと指摘している。彼の詩作で現存するものは多くはないが、それらの詩文からは、民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴的と言える。
王沈の『魏書』によれば、曹操は軍隊を率いること三十数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、高所に登れば詩を作り、できた詩に管弦をのせ音楽の歌詞にしたという。
[将軍として]
兵書編纂の功を見るまでもなく、曹操は当代屈指の優れた戦略家・軍略家でもある。当初は董卓・劉焉・袁紹・袁術らのような有力な勢力ではなく、ただ群雄の一人として連戦連勝を重ねてのし上がり、最終的には中国北部全域を支配するまでに勢力を拡大している。特に匈奴・烏桓・羌などの遊牧騎馬民族との戦いでは無類の強さを発揮している。また、奇襲・伏兵を用いた戦いを得意とし、袁術・呂布との戦いでは水攻めを用いて勝利している。謀略に長じ、軍の統率にも大いに長け、また兵書を編纂し評論できるほどの確かな戦術理論を持っていた、稀代の名将の一人と言えるだろう。
曹操がこと戦役において、袁紹・呂布・袁術ら他の群雄と比べ瞭然として勝っていた部分は、部下の進言・献策を的確に見極めて取捨選択し、利己心無しに受け入れる能力と言える。多くの重要な戦役においては、それらによって曹操が一時不利な状況から勝利を収めた例が少なくない。しかし、曹操は利害が絡まないと厳しい対応を取る事も少なくなく、不遜な態度をとったことを理由に許攸・孔融・婁圭・崔琰を処刑したり自害させている。
曹操は適材適所もわきまえており、『魏書』には「任された将兵は立場をよく理解し、自らの武と奇策をもって難に向かった」との記述が残る。荀彧によれば、曹操軍の軍法軍令は明白で、賞罰も的確に行われていた。
[それら以外での曹操]
曹操は個人的な武芸にも優れていたらしく、『魏書』には(揚州で兵を徴募した際、多数の兵卒が反乱を起こしたが)「太祖は剣を手に数十人殺したので残りのものは皆恐れをなした」と言う文や「人並みはずれた腕力を持ち、自身で飛ぶ鳥を射たり猛獣を捕らえたりした」と言う部分があり、『異同雑語』にも「(張譲の邸宅に忍び込んで発見された際に)手に持った戟を振り回し土塀を乗り越えて逃げ出した。人並外れた武技で誰も彼を殺害できなかった」と曹操の武術に関する逸話が載る。
そのほかに、武帝記注張華『博物志』には、草書、音楽、囲碁に長けていた当時の人物名をあげた後に、彼らに劣らぬ腕前の持ち主として曹操の名を記している。特に音楽については、現存する曹操の詩はすべて楽府ということもあり、その造詣が深かったであろうことを汲み取るのは容易い。また『四時食制』と言う食に関しての著作があり、現存する部分から食に対する興味・関心が深く、知識も豊富であったようである。なお、陝西省漢中博物館には曹操が書いたと伝わる文字(石刻)の拓本が残る。
『三国志』何夔伝によれば、曹操は厳しい性格で、職務で誤りを犯した属官を、しばしば杖で殴っていた。曹操が司空だった時、何夔は司空の属官となったが、毒薬を所持し、杖で叩かれたら毒薬を飲む覚悟で職務に当たっていた。歴史家の孫盛は、曹操のこの行動を礼節に欠けると批判するとともに、毒薬で処罰を逃れようとする何夔の心の狭さも批判している。
文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」(非常な才能の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。 日本でも、三国志を題材にした小説を著した吉川英治は「書いているうちに曹操が魅力的に感じた」と後書きで告白している。
映画《レッドクリフ》中の曹操
映画《レッドクリフ》中の曹操

[三国志演義の悪役に]
史実の曹操には、皇帝である献帝を蔑ろにし権力を握っていた事、徐州に於ける虐殺、孔子の子孫の孔融を一族もろとも処刑した事、名医と言われた華佗の殺害など、儒教の思想的に非難されるべき行為が見られる。時代が下るにつれ、このような苛烈な処置ばかりが強調され、様々な業績は陰に隠れていくこととなる。こうした傾向は曹操没後百年近くたった五胡十六国時代に既に現れており、後趙の石勒は、曹操を司馬懿と並べて「孤児や未亡人を欺き、だまして天下を取った」と痛烈に批判している。
『三国志演義』の原型として確認できる最も初期のものとして、北宋の説話があげられる。『東京夢華録』に「説三分」なるジャンルがみられ、蘇軾『東坡志林』には、講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びしたとの記述がある。
南宋から元の頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、『三国志平話』と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれた。『三国志平話』もまた、曹操を悪者としている。また明初のものとされる関索についての話本『花関索伝』も発見されている。
その後、羅貫中が三国物語をまとめ直したものが『三国志演義』で、大まかな流れは外れないものの蜀漢の陣営を正統とみなし、大衆の判官びいきの心理と儒教的脚色がなされている。
また、中国は唐末・五代以降常に異民族に領土を蚕食され続け、南宋期にそれに対する反発として大義名分と正統を重んじる朱子学が朱熹によって完成を見、それが長く官学としての主流となると三国志もまた正統と異端を断ずる格好の材料となっていった。特に南宋では、中原を異民族王朝金に征服されていたこともあり、中原回復を唱えた諸葛亮を自らと重ね合わせていたために魏は金と重ねあわされ無条件に悪役にされ、魏を正統王朝としていることから陳寿も批判を受け、曹操は多くの論者によって悪とされた。蜀を正統王朝とする『続後漢書』のような史書も編纂され、曹操は正統王朝漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識された。
京劇でも曹操は悪役として扱われ、瞼譜(隈取)も悪役のそれ(二皮)である。
[近・現代の再評価]
『三国志演義』の影響によって悪役としての評価がほとんど定着してしまった曹操であるが、1950年代以降に入ってからは逆転し、急速に再評価が進んでいる。
近代の中国においては、西欧の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した背景に、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合理性を追求した曹操の施策が、多くの知識人によって再評価された。魯迅も曹操を積極的に評価する旨の記述を残している。 特に曹操再評価を盛り上げたのは毛沢東で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。郭沫若が戯曲において曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、文化大革命の時の批林批孔運動でも、曹操は反儒教の人物として肯定された。
現代中国では思想の変遷が、儒教・道教の系譜(孔子、孟子などが中心)と、法家・兵家(韓非子、孫子等)の系譜との対立軸を通じてとらえられることが多い。マルクス・レーニン主義を未だ正当としていることもあり、これらの2思想は中国においては「革命」の段階的進行であった、と説明されている。そして、おおむね身分制度を重視し、男女差別を人倫の基とした儒教の系譜に対しては批判的な評価がなされ、合理性を追求した法家の思想には甘い評価が為される傾向がある。そのため、曹操も単なる「悪役」から多少味のある「悪役」程度には評価を変えてきているようである。もっとも、圧倒的大多数は劉備を心情的に支持していることは変わりがない。
日本では吉川英治が小説『三国志』において曹操を悪役ではなく作品前半の主人公の一人として描き、新たな曹操像を掲示した。1962年に、京都大学の吉川幸次郎が『三国志実録』において曹操の再評価を行い、特に文学の面での功績を高く評価した。また、それまで日本語訳の無かった正史三国志に着目し、曹操の事跡を正史によって詳しく紹介した。
陳舜臣作「秘本三国志」は、三国志演義の大筋に依拠しない、新しい史実解釈を用いた小説として、大きな影響を与えた。この他曹操を完全なる主役格に据えた作品として、小説北方謙三作『三国志』が人気を獲得。漫画作品では吉川英治『三国志』を漫画化した横山光輝作『三国志』や、李學仁原案(原作)・王欣太作画『蒼天航路』が登場するなど、若年層への影響力も大きい。これら作品を中心とした中での曹操の人気は非常に高く、劉備に勝るとも劣らない支持を得ている。
歴史学的には、まず中国における郭沫若らの曹操論争があって文学的な評価が進み、その流れを受けて日本でも、京都大学の谷川道雄、川勝義雄らによる曹操集団および曹魏政権に対する再評価が進んだ。川勝らの曹操ないし曹魏政権、魏晋南北朝理解に対して、越智重明・矢野主税などとの間では1950年代から1970年代の間に活発な議論があったが、結局明確な結論が出ないままに論争の時代が終わってしまうことになった。1990年代以降、行き過ぎた曹操の再評価に対して抑制する動きが多く、また併せて川勝の理解に対しても修正する動きが見えている。
[ことわざ]
『曹操の話をすると曹操が現れる』(説着曹操、曹操就到)。
講談などで、曹操打倒の陰謀を図ると必ずといっていいほど露見してしまうことから、日本語での「うわさをすれば影がさす」と同じ意味で使用される。

「編集:中国情報所 情報元: ウィキペディア(ja.wikipedia.org)」

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